新年度が始まりました。
やれやれ、今日から子ども達は学校へ。
春休み、おかあさん達、お疲れさまでした。
(自分に言っています笑)
今日は私が子どもとの関わりの中で、プレッシャーに感じるのを辞めると、気が楽になった話を書きたいと思います。
「親なんだから」と自分を責めてしまう
たった2週間の春休みでしたが、ずっと子ども達と過ごすのは、親でも疲れます。
ここで「親でも」と言ってしまいました。
「自分の子どもなのだから世話して当たり前。」
「自分の子どもなんだから遊び相手になってやるのが常識。」
「親なんだから子どもの面倒くらいしっかりみないと。」
こんなふうに思ってしまいませんか。
私もつい最近までこのような考えで、何か「親なのに」してあげられていない、と思ってしまうと、自然と心の片隅で罪悪感を感じていました。
私の「親なのに」と思うこと、と言うと、例えば、
天気がとてもいいのに家でずっとすごしてしまう。
遊んで、と言われても面倒ではぐらかしてしまう。
子どもが授業に付いていけてなさそうなのにフォローしきれない。
などなど、このようなこと。
3度の食事や家事の手抜きは全く気になりませんが、子どもとの「こんなこと」が続くとすごく、自己嫌悪になってしまいます。
子どもが嫌いなわけじゃないのです。
でも、どうしてもずっと子どもと過ごすと疲れてしまいます。
特に春休みなどの長期休みは、「親なのに」と思わないこと、との戦いでした。
考えが楽になったひろゆき氏の話
でも最近、西村ひろゆきさんのYouTubeを見て考えが変わりました。
罪悪感なんてこれっぽっちも感じなくて良いと思えました。
その内容はこちらです。
「子どもの世話、子どもと遊ぶのが得意な親ばかりではない。
親だからって、子どもを育てること自体に得意・不得意はある。
本人が悪いわけでもない。
「不得意」なら子どもを作ってはいけないのか、と言われたらそんなことはない。
そんな方のために、国は施設などのセーフティネットを用意している。
子どもを育てるのが苦で虐待するくらいなら、そういう施設に預けた方が子どもも親も幸せ。」
(たぶんこんな感じだったはず。)
と言うようなことを話されていて、私の中の心のもやもやが吹っ飛びました。
子育てに向く親ばかりではない
子育てが性格的に向く親がいれば、向かない親もいます。
よく考えたら、その通りです。
子ども好きな人もいれば、子ども苦手な人もいます。
それなのに、親になったとたん、自分の子どもは自分で責任持つのが当たり前。って雰囲気になってしまう気がします。
私も「親だから」という責任感から自分をストレスフルにさせていたし、他人にも「親なんだから」っていうフィルターを付けて見てしまっていたし、評価してしまっていました。
走るのが得意、不得意と言うのと同じに、子育ても得意、不得意が許されてほしい。
そんな社会になれば、親が追い詰められて虐待したりするのが、減るかもしれないと思います。
例えば公共のセーフティネットの中で、子どもを預けることがもっと簡単にできたりすれば。
昨今起こる、子どもの虐待のニュースは見ていられないし悲しすぎます。
子育てのプレッシャーを捨てた
話がまとまりませんが、ひろゆきさんの話を聞いて私は子育て・子どもと過ごすことに感じていたプレッシャーを少し捨てられたってことです。
親も人間。たった2週間の春休み、子どもと過ごすの疲れた、っていうことです。(^^;)
こう思うのも昔だったら「親なのに」って自分を責めていたかもしれません。
もう責めません。
子どもは自分で成長していきます。
やっぱり笑うのはいい。
そんな感じで、春休みは予想以上にペースに慣れず、桜が開花して「お花見だ~」という気分にもなれませんでした。
今年の桜、すごく綺麗だったと感じるのは私だけですか?
それは咲き始めの桜を見ていて感じていました。
毎年なら、「お花見いこうよ~!」と家族や両親、ママ友を誘う方だったのですが、腰が重い。
人生初かもしれません、「今年は花見、もうええわ。」と思っていたら、母親が誘ってくれました。
誘われると腰って上がります。(^^;)
早起きをして、お弁当を作って、今年もお花見を楽しむことができました。
風が吹くとちらちらと花びらが降ってきて本当にきれいでした。
お弁当の後は、みんなでビーチバレーをしました。
これがめちゃくちゃ楽しくて、笑いました。
笑うっていい。そういえば、春休みに入ってから馬鹿笑いもしていなかった。
少し早く起きてお弁当を作って、ビーチボールして、疲れているはずなのに、たくさん笑ってうっぷんが吹っ飛びました。
笑う門には福来る。笑いのパワーで免疫力アップ。なんて言葉が浮かびます。
笑うって体にいいって言います。
子ども達も楽しそうだった。
それを見て私も嬉しい。
お花見今年もできてよかったです。
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